田舎に住んでいた頃、
名前を付けていた鶏を絞め、
名前を付けていた豚を解体し、
名前を付けていた田畑から実りを頂いた。
自我というものに目覚め、
それがどのようなことを意味しているか理解する年頃になって、
私はそれが苦痛になった。
他者を喰らって活きるという事が。
私は祖母に何度も何度も懇願した。
動植物に名前を付ける習慣を止めて欲しいと。
それを聞く度に祖母は優しく微笑み、
けれど決して私の願いを聞き入れてはくれなかった。
或る日、病で床に臥せるようになっていた祖母は動植物に名前を付ける意味を教えてくれた。
いや、それらは自明であったから、ほとんど確認のような作業だった。
誰しもが生き物を殺し食す。
「その事実から決して、眼を逸らしてはならないよ」その言葉は確りと、私の胸に刻まれた。
都会で暮らすようになって、
私は生の実感を失うようになった。
此処には何グラムで幾らという機械的な数字が並ぶ、文字通りの食品しか存在せず、
何を食しているのか解らない不安は、やがて私の精神を磨耗させていった。
そんな折、近くのスーパーで私は、名前の存在している食品を観付けた。
病んでいる心身にとってそれは最早、天啓に、あるいは天恵にしか観えなかった。
早速私はその食品を入手し、調理し、食してみた。
味は思った程、個性的ではなかった。
その食品の名を教えて欲しい?ああ、構わない。
とてもとても覚え易い名前だった。スーパーの名前と偶然同一だった為だ。
柳川スーパーの、やや小太りな品物。
『柳川−太郎13』という産地直送、生産者、生産番号明記の、それはそれは美味しい梨だった。
『まさかのオチ無しならぬ梨オチか』
『グロだとサーバー規約に触れそうでしたんで』
部活で疲れて早めの就寝をし、三文の徳になるくらい早起きをした朝、
人生で3回程訪れる魅了周期(俗っぽい言い方をすれば、モテ期というやつだ)
らしきものが唐突に來ていることを俺は確認した。
知り合い3人から告白メールが届いていたのだ。
俺は困ったなぁと言いつつニヤニヤしながら、3人に返事を書いた。
『煩ぇ莫ー迦』と。
4月1日は誰が決めたか知らないがエイプリルフールといい、1年で1度だけ嘘を吐いていい日だとされている。
常識的に考えて複数人の女性に対し一斉に告白されるなど、俺の人生にあるわけがなく、
何のことは無い彼女達はその日をいいことに結託し、悪戯としてメールを送りつけたというだけなのだろう。
確かに少し愉快な試みではあると思ったが、残念なことにそんな悪戯に付き合って引っ掛かったフリをする程、
俺は人格者ではなかった。
笑い者にされるのは御免だ。
返事を書き送り終えた後、何と無く彼女達の文章を再び眺めた。
観れば観るほど感心してしまう。
これが嘘だと解っていても琴線に触れてしまう程、その出来栄えは素晴らしかった。
想いを正確に伝えようと何度も何度も書き直し、拙いながらも言葉を選び、
語彙の少なさが故に長文になってしまったかのような、
それは真摯な(或いは切実なというべきかもしれない)文面だった。
何かしら著名な書物なり詩歌なりから文体を流用したのだろうか?いや、それにしては稚拙だし、
個人的な事柄について深く書かれ過ぎている。
奇妙な感覚が拭えずにいた俺は、何らかの矛盾点を探し出すため瞼を擦り、
もう1度最初から文章を読んでみることにした。
すると、上部中央やや左に違和感ともいうべき何かが目について――
──そして思い出す。
昨日は部活で疲れて早く寝た。それは即ち、就寝時刻が24時を回っていない事を意味する。
取り返しのつかない事に気付いて、最早どうしようもないことを理解して、
けれど、条件反射のように確認をしてしまった。
──彼女達3人から送られてきた文章……どれも日付は3月31日と書かれている。
その日は勿論、エイプリルフールとは何の関わりも無い1日で……。
「あんぎゃーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」
人生で3回程訪れる、魅了周期の1回を俺は、こうして無駄に浪費した。
『3分くらいで思い付いて、数分で書き上げた作品です』
『某SNSサイトで載っけてた奴?』
『はい。それの加筆修正版です』
『んー、何か3って数字使い過ぎじゃない?複線にもなってないのに』
『ぐっ、手厳しい指摘』
『後、文章家の加筆修正ってかなり見っとも無い気がする』
『ええっ!?蒼理氏もよくやるじゃないですか』
『おにいちゃそはいいの』
『ええっ!?透迦史もよくやるじゃないですか』
『うん。是見っとも無いよね』
『自分は認めるんだ…………』
『3分くらいで(略)』
『うむ』
『何か感想あります?』
『これ、相手が同じクラスとかだったらもうな』
『ひぃぃ。翌日から彼が何か発言する度に言われますね。きっと』
『勿論、この男の不注意が悪いから自業自得とは思うが』
『それにしたって厳しいっすよね。ていう3月31日に送るなよと』
『ま、そんなもんだろ。人生って地雷原走破競技だし』
『テラ厳し−ッ!!』
朝起きると、隣で見知った人が寝ていた。
裸だった。
ぉゃ、という何とも状況が掴めていない言葉が浮かび、ついでその深刻さを考えた。
私には、妻も子供もいるのだ。
そう、事態自体は深刻な筈だ。しかし、私にはそれが何処か他人事に感じられ、
マズイよなぁやマイッタなぁなどといった何処かズレた言葉ばかりが思い浮かんだ。
昨日、一体何があったのだろう。靄がかかったように、うまく思い出せない。
何とか思い出せることといえば、居酒屋で同僚と呑んでいたことぐらいか。確か、一回り歳下の部下だった。
部下でもあり、そして──
ぁぁ、成程。考えてみればそういうことか。
謎は解けた……というか元より無かった。
しばらくすると、近くでパトカーの警報らしき音が聴こえた。
もしや、この状況に対して妻が警察を呼んだのではと思い、
その想像は不謹慎かもしれないが、私を愉快にさせた。
しかし、大抵の場合、愉快な想像は不愉快な現実に掻き消されてしまうもので、
この状況もまた、例外には当てはまらなかった。
──本当に、妻が警察と共に、現れてしまったのだ。
私は驚いた。
想像が現実になったからというだけではない。
私には、このような状況下に妻が現れるとは思えなかったのだ。
妻と私の仲は決して良くない。率直に、冷え切っているとさえ言っていい。
その彼女が、この光景を観て、信じられないという風にぼんやりとし、
次いで有ろう事か泣き出してしまったのだ。
──妻は、私を愛していたのか?
或いはこの一件により一家の大黒柱を失い、
金銭の面で先行きが不安になったということで涙しているのだろうか。
そちらならば、おそらく心配しなくていい。生活費……最低でも養育費くらいは払うさ。
私の代わりに、
保険会社が。
妻は未だ号と泣いていた。
警官は現場の保全に勉めていた。
部下だった犯罪者は出頭していた。
隣で、見知った私が裸で寝ていた。
『何てか、色々な処で書き過ぎてる気がする話。さほど巧くもないのに。つか、有体に言って下手なのに』
『おにいちゃその初作品だねー。つかさ、これ最初に書いた時って確か高校1年生だったんでしょ?』
『うむ』
『……何かこー妻とか金銭とか養育費とか出てきてるんだけど。それってどうなのっていう(ワラワラ)』
『おそらく山本文緒さんの影響だな。別に人妻に興味があったとかいうわけでは全然無い』
『成程ね』
『……流されたッ!!思いの外ショックだ(ワラワラ)』
『まぁ、おにいちゃそが変態さんなのは知ってたり。そしてどんなにおにいちゃそが変態さんでも、
是は常に遠くで見守ってるから』
『普通に距離取ってるやんっ!!(激爆)傍来いやうらー』
『きゃー、こっちきたー!!』
『……仲睦まじい兄妹の一コマな筈なんですけど、
どうにも乃公には犯罪的なシーンに見えてしまったりとかするんですよね』
『何ていうか、それは正しい(爆)』